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牧師の書斎 2019.6.2

 私がクリスチャンになってまだ日が浅い時、先輩のクリスチャンから毎日箴言1章、詩篇1篇ずつを読むように勧められた。詩篇にはダビデの神への賛美と共に困難の中で赤裸々に神に訴え祈っている詩が多い。


 詩篇は150篇あって、聖書66巻の中で一番多い。「詩篇」のもとの言葉は「ハレルヤ」(=主をほめよ)という動詞から由来した名詞の複数形で「賛美歌集」という意味である。この中には賛美の歌や、感謝の歌に分類されるものも多くあるが、嘆きの歌とされる数も大変多い。


 「歌う」というのは「訴え」から出た言葉だと言われている。歌は必ずしもたのしく愉快な気分からだけでなく、むしろ、とても歌えないような状況の中で、何ものかを訴えたい気持ちの表れとして生まれてくるほうが多いかも知れない。「バイオリンの名器は、谷に落とされ、流れにもまれ、あちこちの岩にぶちあたりながら流れ着いた木からなるものもある」のだそうである。その深い音の響きは、くぐり抜けてきた苦難の経緯とは無関係ではないだろう。ダビデの詩は多くの苦難の中からの神への訴えであり、詩篇を読む人々の心の琴線に触れるだけでなく、だれでも神への信仰が興されるだろう。


 私たちが願ったり期待する通りにならなかった場合、それを失望というならば、失望の連続かも知れない。でも神が私のためにして下さることに任せて生きる歩みの中で起こることが、神の導きだと確信して生きる日々は、失望に終わることはないはずである。私たちはどんな時でも神が働いて下さるのを信じて待ち望むことを求められている。理不尽に見えることだらけの世の中でもダビデのように神に近づき、歌い(訴え)ながら神の成されることを待ち望もう。