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牧師の書斎 2019.8.11

 先週、自衛隊八尾駐屯地の花火大会が駐屯地の敷地で開催され家族で見物に行った。花火会場に続いている周辺の道路は敷物やクーラーバックを携えている家族連れの人々、浴衣姿の子供たち、自転車で向かう人々でごった返していた。


 私自身以前にも書いたが、家で寛いで部屋を涼しくして日本一と呼ばれる秋田県の大曲や、新潟県の長岡市の花火大会をテレビで中継するのを 家内が見ている時に横で一緒に見ることがあった。しかしテレビでは視覚で花火の美しさを感じても、「ドーン」という「音」や「振動」、また観客が「ワァ~~」と大声で叫び感動と共に手をたたき全身に伝わってくる独特な臨場感がない。どんなに暑くても、どんなに会場に行くことが大きな犠牲を払わなければならないとしても、その臨場感を求めて足を運ぶのである。真っ黒な空にパッと花が咲いた様な様々な打ち上げ花火の醍醐味は、「シュルシュル」という音と共に空に舞い上がっていく炎、そして「ドーン」という音とともに放射線状に飛び散った赤や青や緑色の火玉が数秒間自在変化するところにある。時には予想外の展開もある。連日熱帯夜が続いているがこの瞬間は蒸し暑さを忘れている。花火大会は非日常生活の特別な味わいの時で、数十分の大きな感動を与えてくれる。ちょっと気が早いがまた来年も自衛隊の花火が見られたらよいなあと、楽しみにしている。


 花火大会が終わって感動の余韻が続く帰り道、主イエスが私たちに与えて下さった救いは花火大会に比べることが出来ないことを思わされた。私が主を信じた時に経験した喜びや感動はまさに第一ペテロ書1章8節の「あなたがたはイエス・キリストを見たことがないけれども、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことができない、栄えに満ちた喜びにおどっています」のそれである。


そして、53年経った今も主への感謝とこのお方のためなら何でも喜んで従って行きたいと思わされている。花火大会に人々が続々と集まってくるように、主のもとに集められることを祈っている。