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2021.4.25 牧師の書斎

コロナウィルスの感染拡大が止まらない。今日からまた17日間の三度目の発令となる緊急事態宣言が発出された。「えっ!また・・・」と、今まで外出を控え我慢していた分ウンザリしてしまうのも事実であろう。

 

ワクチン接種でも日本では遅々として進んでいなく、このままいけば感染が収束し立ち直るまでに最も時間がかかる先進国になるだろうと言われている。イスラエルは国民の6割がワクチン接種を終え、屋外でのマスク着用義務が廃止され、コロナ以前の日常を取り戻しつつあると報道されていた。そもそも、「緊急事態」という言葉の定義があやふやという問題がインターネットで論じられている。コロナウィルスウイルス感染に初めて直面したのだから…すべてに明確なものがない。そのため、緊急に対する度合いの判断は個人の主観に頼るしかない。同じ状況でも、恐怖や不安を強く感じる人にとっては緊急事態となるが「自分は平気、大丈夫だろう」と思えば緊急性を軽く見積もる。今、誰もが感じているかも知れないが、感染予防対策が日常的になり、日々の感染者数の推移は見聞きしても切迫感が失いつつあるのも否めない。

 

信仰生活においても、与えられている御言葉、約束が事実であると知っていても、自分の秤で判断していることが多いかもしれない。初代教会のキリスト者は「マラナタ(主よ、来たりませ)」と挨拶しいつも主が来られることを意識し、生きていた。私はどうだろう?

 

日々に追われ、主の恵みに慣れてしまって感謝を忘れ、「主が私たちを迎えに来られる」信仰がいつの間にか生温くなっていないだろうか。自粛生活で与えられた時間、自分のためにも、また以前から救われるように願い祈っている家族や友人のために誰も働くことが出来ない夜が来る前に、その日が来る前にもう一度始めていこう。