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2021.6.13 牧師の書斎

今月の第一水曜日、女性の集いのテーマが「礼拝」と決められていてメッセージ担当で、「礼拝とは何か?」と毎日黙想し、「レビ記」からメッセージをするように導かれた。毎日、毎週、礼拝をささげてはいるが、形として知ってはいるが、本質はなかなか捕えてはいないように思うのである。

 

私が救われた頃、聖書の中で特に読みづらく苦手な書は「レビ記」であった。伝統的に、農耕民族である日本人である私としては、いけにえや供え物について、また食物の規定、霊と肉のきよさについて詳細に記されていて文化的にも、ことば的にも難解な書である。

 

しかし、もう数十年も前になるが、牧会ために示され、導かれて教会で「一日一章 今日の力」の聖書通読を始め、その日の通読箇所から主日礼拝メッセージをするようになった頃、レビ記を通して、私自身が主への礼拝のあり方が変えられた経験があった。レビ記の最初の言葉は、「主はモーセを呼び寄せ、・・・彼に告げて仰せられた」(1;1)。「主が語られた」、「主は言われた」、あるいは「命じられた」などの言葉が56回も使われているように、神は私たちを引き寄せ、親しく語られるお方である。

 

神との交わり、神を礼拝し得る特権は、ただ血を流して犠牲をささげることによってのみによると、はっきり記されている。レビ記の多くの儀式は、すべてに於いてやがて来られるイエス・キリストご自身とそのお働きついて示され、そのひな形である。レビ記を通して新しい契約である新約聖書のイエス・キリストの贖いを理解することが出来るのである。レビ記を難解な書と思っている兄姉方もいるだろうが、神に喜ばれる礼拝をささげるため、チャレンジしてみては?