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2020.11.1 牧師の書斎

この数週間、創世記から信仰に生きた人をテーマにメッセージさせていただいている。ノアは正しい人であって、その時代にあっても全き人であった(6:9)が、失敗をした(9 章)。信仰の父と呼ばれたアブラハムでさえ何度か自分の妻を妹と言う偽りを言う。人間の弱さや失敗をあからさまに私たちに告げている、聖書は真実な書である。

 

聖書を読んで、どんな失敗の人生であっても、神は必ずそこから立ち直らせて下さるという事実にいつも励まされる。聖書に登場する人びとに神の一方的な恵み、救いを淡々と語っているのだと教えられ、神の愛を受け救われた私の人生にも同じ恵みが備えられていると感謝が出来るのである。

 

私自身、メッセージで失敗談をそのまま正直に語ると、決まってその後、兄弟姉妹から「先生、今日のメッセージ恵まれまた」と私を励まして下さる(?)。私たちはともすれば人の成功談を聞くと自らを比べ妬みや自己憐ぴんを助長させるが、失敗談は、妙にその人に親しみを感じる事が多いものである。

 

人は失敗を通して学ぶことが多くある。いや、失敗しなければ学べない事が多くあるというべきである。神は人が失敗することをあらかじめ承知しておられるのであるから、隠すことなく、自己卑下することなく何度でも挑戦していく者でありたいと願わされる。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」 詩篇 51:17