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2021.1.24 牧師の書斎

設立40周年の記念誌に載せられている牧師の書斎を読むことがある。歩みを振り返る中、その折々に父なる神が八尾南の群をどのような方法で導かれたのかを思い起こし、まさに出エジプトを果たし荒野を旅するイスラエルのようだと思わせられ感謝があふれてくる。

 

与えられた恵みの一つ一つを数え、教会の霊的資産を改めて握り直し、これからの歩む方向に導かれたいと願い祈っている。1998年1月4日の小欄を読んでいて、年頭に与えられた御言葉と重なった。

 

その時の牧師の書斎には『新しい年が始まり、今年も何を一番にしたいかと言えば、神の前にいつも静まる時間を持ちたいと願う。「やめよ、私こそ神であることを知れ」は詩篇46篇の御言葉であるが。「やめよ」は捨てる、とか見放すという受け身的な神を待ち望む姿勢を現している。神の御前から離れて私たちは何もできない者である。だから、何事かをしようとする前に神の御言葉の前に座すことが肝要である。必ず主と交わる時デボーションを持とう。』と書いていた。

 

20年前も、今も慌ただしく時間に追われて静まることは難しい時代である。そのような時に生きているから、「主のみ前に静まる」ことが大切なのである。キリスト者が「静まる」のは消極的態度でなく、神との親密な交わりの時であり、神の御声を聞く時間である。静かに自らを見、弱さを認め、神の前に無力になることである。神に語ることに集中する祈りが多いが、今年は神の前に静まって聴くしもべとなり主の御心を歩む者でありたいと願って、もう一か月が過ぎようとしている。