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2021.1.31 牧師の書斎

援助活動という美名の下には危険な「ワナ」が潜んでいる事がある。それというのもいつの間にか「助けてあげている」という立場に立たされてしまう恐れがあるからである。もっと極端な場合は「助けなければならない」という使命感?に燃えて、奔走することである。その結果、思いもよらない(?)支配と隷属という歪みが生じてくるのである。

 

最近、妻が、ごく自然に使っている言葉の中に上からの目線で話している、と娘から指摘されていた。それは「~してあげて」という言葉である。家内は「母親言葉」と弁解しながらも無意識でその言葉を語っているのを聞くと、中々身に着いた習慣を変えることの難しさを自分の事のように感じている。

 

随分前の話になるが、20年近くネパールで医療宣教師として活躍された岩村昇医師が「与えてやる、教えてやるといった、姿勢ばかり全面に出る援助は本物ではない。『お互いさま』の関係を忘れてはいけない」と語られたことがある。教えたり、教えられたり、与えたり、与えられたり、持ちつ持たれつ・・・の関係の中で人の付き合いは深まっていくものである。

 

パウロは書簡の中で、「私があなたがたに会いたいと切に望むのは御霊の賜物をいくからでも、あなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです」(ローマ1:11,12)と相互関係の中で共に生きている事を伝えている。私自身も家族や、兄弟姉妹から助けられ、教えられ、支えられ牧会を続けさせていただいている。今日も、主の許しの中で多くの方々の祈りに支えられ奉仕に預かれる幸いな者と主に感謝し喜んでいる。